千社札とは
千社札とは千社詣(多くの寺社に巡拝・祈願すること)をする人が社寺に納める札のことです。自分の名や屋号、住所などを刷り,社殿の柱などに貼りつけるものです。納札とも言います。
千社札の始まりに関して曲亭馬琴の曲亭雑記 巻第4 下、天愚孔平傳の最後に「千社参の札を張ることハ。この孔平がはしめたりといふ孔平と印行せし紙札。今も稀にあり。」という記述があります。天愚孔平という人は奇人のようで、身体を洗わず臭く、晴天にも関わらず破れ合羽草鞋がけで江戸中を歩いていたということです。
納札の種類
納札大鑑や納札史という書籍によると納札には巡礼納札、六十六部納札、題名納札、四国遍路納札、碑文納札、額面納札、遠乗納札、河流納札、交換納札、連合納札、道歩納札、府内遍路納札、大師詣納札、富士講納札、同胞納札、簪子納札、菩提納札、御礼納札、千社参納札、芸人納札、広告納札などがあるそうです。
納札会 編『納札大鑑』,納札会,明44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/818749 (参照 2023-03-16)
フレデリック・スタール 著 ほか『納札史』,藤里好古,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240271 (参照 2023-03-17) ※閲覧には利用者登録が必要です。事前に本人確認書類を用意する必要があります。詳しくはこちら
千社札の紋章
千社札に配置された紋章は納札交換団体のしるしだったとは知りませんでした。「日本遊戯史」によると、珍奇な札は非常に高価で取引されるため、それらを引き剥がして商売にする者が現れました。また、年代物の千社札は貴重な品とされ、千社まいりの口実で剥がし回る者も現れ、この悪習がますます広まったそうです。そこで、この問題を解決するために千社札交換会が組織されたそうです。
宮武外骨の千社札解説
明治・大正期に活躍した宮武外骨(みやたけがいこつ 後に読みを「とぼね」と改めている)の奇態流行史という著書で千社札についての記述を紹介します。大層なブームになったようです。※掲載の文章は読みやすいように旧仮名遣いや旧字、句読点など適宜改変していますのでオリジナルとは異なっています。【】内は注として追加しています。
廃姓外骨 編『奇態流行史』,半狂堂,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/927419 (参照 2023-03-16)
●新意匠競技の「千社札」
近年東京および大阪等に、昔の千社札を蒐集する人々が多くある。この千社札というのは、神社仏閣へ参詣した者が、自身の氏名または別称等を記した紙札を貼付して、参詣のしるしとしたものであって、古くは西国三十三所順礼、奥州津軽の住人何某とか、同行二人とか記した紙札に起因したものであるが、文化の頃江戸に天愚孔平(俗称荻野喜内、号鳩谷【きゅうこく】)という奇人があって、「鳩谷天愚孔平」と刻した札を四方の社寺に貼付したのが近因となって、信心気の無い者までが紙札を製して社寺に貼付することになり、天保嘉永安政の頃に至っては最も盛んに流行し、江戸市人の過半はこの流行熱に浮かされて、我もわれもと新意匠を凝らしたものを製作すること、あたかも近年における絵葉書のごとき盛況であって、その流行は明治維新の際まで止まなかったのである。
物事の流行はその極端に奔【はし】るものであって、この千社札も最初は天愚孔平の札に擬した墨摺のものであったが、漸次奇構を凝らして美を競い新を争う結果、浮世絵師の手によって彩色摺のものとなり、社寺に参詣して貼付するのでなく、納札大会とて同好者の集会を盛んに開き、毎回その席上で相互に誇って交換せるを目的とし、その競争の果はアーでもない、コーでもないとて、札の寸法を倍大にする者があれば更にそれよりも大きなものを製し、終には奉書紙【ほうしょ(し or がみ)】二枚つぎという途方もない大形物を製する者も出、納札はただ名のみで、新意匠の競技会というようなものになってしまったが、今日それらを蒐集したならば、当時の趨勢を察し得るのみならず、工芸図案の参考となるべきものも少なくない。六歌仙組とか、七福神組とか、歌舞伎十八番連、源氏組、道化組、江戸名所組、東海道五三次連などいう華美のものも多い。それらの種類を悉【ことごと】く集めたならば、おそらくは二十万枚以上になるであろう。(此花) 【雑誌名】
明治四十年前後にも、この千社札が復興して、東京大阪等の好事家連が、新意匠を凝らした新版物を作り、それを盛んに交換したが、その余熱今に止まず、何々連とか何々組とかいう納札交換の団体が各地にあって、時折はその団体で社寺巡りをする事もある。
また近年はこの千社札を名刺代りに使用する事にもなって、他人を初めて訪問するに、二三枚の千社札を玄関番に出す者もあり、吉原の幇間【たいこ/ほうかん】などは、普通の名刺を持たず、みな千社札式の名刺を客に渡すことにしている。
もう少し詳しい資料がありましたので、紹介します。この文章は納札史を基にしているようです。
八代国治 等編『国史大辞典』増補年表,吉川弘文館,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1188704 (参照 2023-03-18)
ノウサツ 納札
名義 参詣の記念として、神社仏閣の社殿堂宇扉天井等に、その人の名を印刷せる札を貼付するをいう。その札を千社札と称す。
起源沿革 千度詣または、千社参等に淵源【 えんげん/物事の成り立ってきたみなもと】せり。この風平安朝の末より鎌倉時代にかけて起りしが(増補の参詣「サンケイ」参看【 さんかん/参照】)なおまたこれと共に三十三観音に巡礼することも行われしが、後には自己の名を刻せる木札または真鍮の板金を、堂の柱に打ちつける風習を生じたり。(「サンジユウサンカンノン」参看)
かくて千社へ参詣する風習と、霊場を巡りて札を納むる風習とが原因となり、江戸時代寛政前後に至り、千社参りと称する納札連江戸諸方に勃起せり。そは当時江戸市の内外に十二薬師、八八幡等仏神の数にちなみて諸方を参詣する一種の信仰風俗あり。
嬉遊笑覧【きゆうしょうらん/江戸時代後期の風俗習慣、歌舞音曲などが書かれた随筆】には、千社詣が明和七年撰の江戸名物鑑に見えざるより。安永以来行われたたるものとなし、麹町の五吉が創始せりと記載すれども、明和五年出版の絵本吾妻の花【北尾重政画】に、浅草観音堂の柱に千社参と記せる札三枚張付けあり。
山田桂翁の宝暦現来集【ほうれきげんらいしゅう/江戸時代の随筆】には「神社仏閣神社参の札を張る事は、天明年中麹町十二丁目てんこうという男、参詣せしを覚えのために張りたるなり。その後同5丁目吉五郎と申【す】男も、また天江同様に張りたるなり。
寛政中頃よりこの札を張る事名聞【評判】となりて、参詣拜もせずただいたづらに張歩行なり云々」とあり、吉五郎は嬉遊笑覧に見えたる五吉なるべく。またてんこうは即ち天狗孔平なり。孔平は本名を荻野喜内といい雲州の藩士なり。識見ある儒者として知られしが、中道にしていわゆる太平の逸民【 官職につかず気楽に暮らす人。】となり、奇行をもって著わる。壮年より納札を好みしが、はじめて摺札を製してこれを貼付することを考案せり。
納札の盛んとなれるはこの人と吉五郎の力に負う所多きがごとし。要するに納札ははじめは民衆の信仰によりて生まれ出でし千社参に、あと若干の好事家が自己の名を印して後世への記念に貼布せしより、流行せるに至りしものなり。しかして寛政十一年にはこれら同士の人々の大会合を行えり。会する者に士あり商あり、いずれも納札を交換し懇親を結べり。
これより以後納札会は盛んに行われ、納札にも各々工夫を凝らし、技巧を尽くすに至れり。安政の末年には月五回の会合あり。会毎に出題に対する札を作り、費用も相当にかかりければ、有福者ならでは加入する能わざるに至れり。
かくして納札会は宗教的意味より遠ざかりて、趣味玩弄の会となれり。明治維新以後衰微して舊の如くならざりしが、一部の江戸趣味研究者間に復活せられ、前と同様月々会合して交換をなし。また懇親を図る事となりぬ。
形状及び種類 寛政時代即ち始めて納札会の起りし頃には、札の寸尺一定せず、墨榻白字多く稀に自書せしが、文化初年頃より彩色札を作るに至り、天保には一層複雑となり、安政年間に及んでは錦絵の如くなれり。用紙の寸尺も天保頃より西之内【にしのうち/茨城県常陸大宮市の旧・山方町域で生産される和紙】一枚を十六葉に切りて用いる事となり、これより大なるも二枚掛三枚掛と称して一定の大きさを保てり。
また文化文政頃までは交換札と貼札とは同一物なりしが、その後両者に区別をなし、貼り札は古式の墨を用い、交換札は極彩色の榻画を用いたり。このほか近来製作せるものに細工札あり。すなわち一に集むれば双六の絵をなし、また文化文政頃の千社札に菩提札あり。これは連中の一人が死去せるおり、その生存中に用いたる札を、朋友が社寺に張りて菩提を葬いしものなり。
また安政頃にはかんざし札あり。幅三分長さ一寸程の彩色札なり。こは納札集会席上芸妓の簪となすために特に作れるものなり。また連札あり。江戸諸方の納札連または最寄者、あるいは同職、または芸人仲間などが、連印を附したるものにて、古くは虫喰連矢筈連等あり。安政年代には八角連最も盛業せり。
次に納札の意匠は寛政より文化年間までは著しきものなく、札の形式不規則にて黒地白字の物多く、文政末より朱印を捺押せしものあり。宝づくし、草花づくし、七福神、東海道五十三次等の絵札あり。天保より安政にかけては連印の下に立田川、隅田川あり。源氏五十四帖、十二ヶ月、十二支各自意匠を凝せり。
明治大正に至れば玩具づくし、古銭尽くし、似顔絵等あり。毎月題を定めて意匠図案を考え趣向を凝せり。なお興味あるは文化年代に和蘭文字にて「スケブン」「トジタカ」「トシミツ」【Skebn.Tositaca.Tosimits. (筆記体) ※納札史ではTojitaka (トジタカ)となっているがToshitaka (トシタカ)の間違いではないかと思う】の三名連名札あり。また「ゴード」【GOD】と記せるあり。また成就の意なる語を入れしものあり。当時における蘭学の影響を窺うに足るべし。
次に以上の納札は如何なる方法を以て貼付せしかというに、手のみにて貼るを中橋といい、長き竿を用うるを両国橋といい、継ぎ竿にて貼るを日本橋といえり。また投げ貼りとて手拭いをぬらし畳てその上に札を起き天井に投げて貼付する方法あり。
赤団子なる人は常に高所へ貼付するを以てその方法を探りしに、その人の脇差中に継竿を挿入しありきという。以て納札者の苦心を知るべし。
なお「センジャマイリ」参看(考古学雑誌山中笑氏「千社参り納札に就いて」)
今回のコレクションは千社札です。
※図は国立国会図書館デジタルコレクションのパブリックドメインのデータを加工・使用しています。掲載に当たって、紙焼けを修正し図版を鮮やかにしています。その副作用で細部が飛んだり、オレンジ系統の色が出にくくなっています。そのためオリジナルのデータとは異なっているということをご了承ください。
『千社札』[1],刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575066 (参照 2023-03-16)
『千社札』[2],刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575067 (参照 2023-03-16)
『千社札』[3],刊. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575068 (参照 2023-03-16)
コメント