頼山陽印譜

頼 山陽(らい さんよう)は、江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。歴史書「日本外史」を著したそうです。
印譜(いんぷ)とは鑑賞や研究を目的として印章の印影および印款を中心に掲載した書籍ということです。
今回は頼山陽の印譜をご紹介します。

頼という珍しい名字なので、サクッと調べてみました。
要は、主君の命に背いた一族は自刃し、残された遺児が追っ手から逃れるため、頼兼村に隠れ姓を頼金または岡本と称し鍛冶を業とした。竹原に移住し頼兼の一字をとって氏を頼と改めた。というところでしょうか。

詳しくは縁者の頼兼さんのアーカイブで
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/darabojp/family-mokuji.html

頼山陽(藤森成吉 著
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169095
頼というのは日本語には珍しい名字だが、これは頼家の先祖で戦国時代の名将小早川隆景の部下だった岡崎頼兼という武士の子孫が鍛冶屋になって、「頼」を名字に、「金」を「金屋」という屋号にしたのだという。

頼山陽先生(頼山陽先生遺蹟顕彰会 編)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033117
小早川隆景が三原在城の頃、その西御調群西野村に頼兼という城があって、城主を岡崎十郎左衛門といったが、その縁家に当たる神邊城主討伐の命を奉ぜずして一族自刃した。その遺児の同村に隠れて鍛冶を業としたものが、姓を頼金または岡本と称し、分かれて三原西町に在したものの子孫が、竹原に移って頼總兵衛道圓と称した。これが頼家第一世であって….

頼山陽と其母(木崎愛吉 著
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993471
山陽の父春水先生は、芸州竹原の人で、その先祖は總兵衛(名は正成、道圓と号す)といい、備後三原の城主小早川家に仕え、後三原の西に当る頼兼村に移り、更に竹原に移住した。頼氏と称するのは、すなわち頼兼の頼の字を取ったので、普通には羅井とも書いている。

頼山陽先生伝(京都府教育会 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148688
先生の祖は備後国三原の城主小早川隆景の臣惣兵衛正成から出ている。正成が姓を何といい、隆景の臣下として如何なる地位にいたかは、その家譜が早く消失して今からそれを知ることができない。隆景が実子無くして慶長二年六月(豊臣秀吉の薨する一年二ヶ月前)に歿すると、その諸臣の中では近村に分散して帰農したものもあったが、正成もまた東北の頼兼村に退隠して道圓と号し、ついで更に安芸国加茂郡竹原郷の下市村(今の竹原町地内)に移住し、この時先住の地名頼兼村の一字をとって氏を頼と改め、和船を造って海運業を営み、その余生を送った。

注)頼兼城 城主=岡崎十郎左衛門 = 岡崎十郎左衛門頼兼 = 岡崎頼兼

データについて
国立国会図書館デジタルコレクションのパブリックドメインのデータを加工して使用しています。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538967
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849849

01raisanyo-impu

Image 1 of 23

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次